祈りの部屋

デボーション(静まり)の部屋   (2017. 3/9 更新)



2017. 3 / 9 「イエス様より愛された私」

一年半以上もこのページを更新していませんでした。本当にすみません。でも日々、神様の恵みは私に注がれていて、今日まで生きています。

私たちの教会では今年度、「三浦綾子読書会」を始める事になりました。その第一回目で来てくださったH先生のお話に、大変感動し、涙しましたので分かち合いたいと思います。

ある時、中学生だったH少年は、大好きだった担任の先生との交換ノートにこう書きました。

「第三次世界大戦が起こったとして、地球上が火の海となったけれども、先生はヘリコプターで助かったとします。ふと下を見ると、まだ燃えていない所があって、そこに先生の息子さんが助けを求めていました。そしてちょっと離れた所に、僕もいました。あと一人しかヘリコプターには乗れません。先生はどちらを助けますか?」と。
(えらい質問をする生徒やなぁ、先生もさぞ困られたでしょう・^^;)

H少年は99%、先生は「息子を助ける」と言うに決まっている、とは思っていました。そしてしばらくしてノートが返ってきました。そこには赤ペンで「私も人間です。そのような事になれば、息子を助けると思います」と書かれてあったというのです。H少年は「そりゃあそうだろう。もっともだ。やっぱりな。」とは思ったのですが、「でも! もしかしたら、お前を助ける! と言ってくれるかもしれない」と、心のどこかで期待していたのでしょう。やはりショックだったそうなのです。

その時から「息子よりもお前が大事だ!」と言ってくれる存在はないのかと求めていたと言うのです。そして、ついにそのようなお方、神様の愛を知ったのでした!

父なる神様は、ひとり子であるイエス様を身代わりに十字架にかけるほど、H少年を愛された。「神様は、息子よりも僕を選んでくださった。僕を助けるため、ひとり子であるイエス様を犠牲にされた。これこそが、僕の求めていたものだ! それは、神の愛だったのだ!」と。

この話をお友だちにしたら、彼女はこんな事を言ってくれました。
「私はその先生自身が、ヘリコプターから降りて、二人を助ける! と書くんじゃないかと思った。」と! 私は「おぉー、それは思いつかなかった。そうか、その手があったか!」

そしてその事を考えさせられた時、気づかされたのです。
イエス様こそが、まさしくそうされた方だと! イエス様は、ご自分が着いておられた席から立ち、ご自身を身代わりとするため自ら降りられ、その救いの席に私を座らせてくださったのだと!! 

この父なる神様の愛、子なるイエス様の愛があって、私は救われた! 
火の海から拾い上げられた。なんという愛! 何という救い! 

この愛は、あなたにも注がれています。あなたも是非、この方の愛に気づいてください! あなたの為に用意された、この救いのシートに、ただ「ありがとうございます」と言って、お座りになられるだけで良いのです! 心からお祈りしています。

 神は、実に、そのひとり子(イエス様)をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子(イエス様)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ 3:16 
                                                    

2015. 7/8 「和解 〜後藤健二さんが、いのちをかけて伝えたかった事〜

イスラエル研修旅行の最終日。私たちの一行に飛び込んで来たニュース! それは人質となった後藤さんらの事件だった。

あれから、後藤さんが書かれた「ダイヤモンドより平和がほしい」を読んだ。

西アフリカのシエラレオネという国の中に、手や足を奪われた人々が暮らすキャンプがある。彼らは反政府軍に手足を切り落とされ、多くの人々が死んだ。まだ赤ちゃんだった子も、耳や腕を切り落とされていた。そして、襲ったのはなんと、10才〜16才の少年たちだったという。

後藤さんは、この村を襲った少年たちを捜しあて、話を聞いた。12才の子ども兵士ムリアは、両親を目の前で殺され、反政府軍の兵士に連れて行かれ、戦闘マシーンとして訓練を受け、多くの人を殺すようになったのだった。

この本の写真の少年が、ムリアだ。彼の目の下の三日月のキズ、それはカミソリで切られ、麻薬を埋め込まれた跡だった。麻薬中毒となった少年たちは、とても正気ではいられなくなり、片っ端から人を撃ち殺して行った。

そんな彼らを救ったのは、教会だったと言う。麻薬から解放される為には、大変な日々を過ごす事になる。しかし、もっと苦しいのは、正気になる事によって、自分が何と恐ろしい事をして来たかを、直視しなければならなくなる事だ。麻薬をやめる為には、苦しい現実と向き合わなければならず、そんな事ならいっそ、狂っている方がましだと、また麻薬に走ってしまう事もあるという。

被害者の方の言葉「彼らを赦す。だが忘れない」と。人間は、忘れる事はできない。しかし、神様の赦しは完全。「もう忘れた。二度と思い出さない。」と言ってくださる赦しなのだ。イエス様の流された血潮によって、私たちの罪は、完全に解決されたのです。


キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
エペソ 2:14〜16
                                                    

2015. 1/27 「捨てられた石 」

「捨てられた石」イスラエル レポート (3)
エルサレムでの礼拝メッセージから与えられた恵み
私は、もうすぐ引っ越すので、この年末年始は大大大掃除作戦! 「何でも捨てモード」の、スイッチが入った。「いらん! これもいらん、もう必要ない!!」と言いながら・・・。
引き出しも全部、角から角までチェック。すると中からビニール袋が出て来た。何だろうと見たら、石がいっぱい@@ とてもきれいなカラフルな石。
「あー、これは淡路島の五色浜の石だなー。うーん、キレイやなぁ・・・。でもこの先いるかなー、石ねぇ・・、もういらんな。捨〜てよう!」
五色浜の石

それから2週間後、いよいよイスラエルに行くという前の日。一人の友人からメールが来た。「イスラエルの石をお土産に持って帰って来てください〜」「えっ、石? ふーん、石でええの? わかりましたぁー、了解!」と言う訳で、イスラエルでは、色々な場所で石を拾い、持って帰って来たのだった。
イスラエルの石
「山上の垂訓」とは、イエス様がメッセージをされた山
「クムラン」は、聖書の巻物(死海写本)が見つかった地
「シロアムの池」は盲人が見えるようになった池
「ガリラヤ湖」の貝
正直、イスラエルの石も日本の石も、そんなに変わらない。いやむしろ、私が捨てようと思った五色浜の石のほうが、美しい。でもどんなにきれいでも、いらないモノは捨てられる。しかし、誰かにとっては、どこそこの石は、とても大切なものなのだ。
18日の礼拝は、イエス様が十字架に架かられたエルサレムで捧げられた。言葉にならないひとときだった。そしてその日のメッセージはなんと「石」の話だった!
「主(イエス様)のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。(1ペテロ 2:4-5)」
イエス様は人には捨てられた石・・・。人々は、イエス様を捨てた。「あなたなんか、いらない。もう私には必要ない!」と。その苦しみは私の為・・・。
そして神の目には選ばれた、尊い、生ける石だったはずのイエス様は、十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれる事になった。それも、私の為だった・・・。
イエス様は、人々から捨てられ、弟子たちにも裏切られ、そして神様からも見捨てられた。すべては、こんな私を救うため。命がけで愛してくださり、最後まで十字架を全うされた。「捨てられた石」そのイエス様の深い愛をエルサレムの地で実感した。
神様は私を「もうお前なんか、いらない。もう必要ない」と言って、捨ててしまわれない。それは私が、美しいからとか、役に立つから、ではない。捨てられて当然の汚れきった私を、役に立つどころか神様のお邪魔をしているようなこの私を、かけがえのないものとして、拾いあげてくださったのだ。なぜか。それは、私がイエス様のいのちという代価を払って買い取られたからなのだ。
神様は「お前は高かったんだよ。わたしのひとり子(イエス様)のいのちと引き換えに、手に入れたんだからね。捨てる訳がないよ。おまえは、何にもかえられない尊い存在なのだから」と言ってくださったのです。ハレルヤ!

「からし種」は、小さな種。
しかし、成長し空の鳥が来て巣を作るまでになる。
「いなご豆」は放蕩息子が、
豚のえさであったいなご豆でもいいから
腹を満たしたいと思うぐらい、
空腹だったとの話に出てくる。
                                                    
2014. 12/16 「何の為に生きるのか? 」

まだ20歳ぐらいの時、兄が私に尋ねた。

「お前は何の為に生きてるんや。自分の為か、それとも神様の為か、どっちや!!」私は一瞬迷った。もし「神様の為に生きている!」と言えば、きっと兄は「自分の為に生きる人生じゃなければ何の意味もないだろう!!」と怒りだすに違いない。でも私は、今こそハッキリ言う時なのだと思った。「神様、助けてください」そう祈ると、思いきって

「神様の為に生きてる!!」と大声で答えた! 次の瞬間、きっと灰皿が飛んでくるんだろうと、頭を覆ったその時、飛んで来たのは意外な兄の言葉だった。

「そうか…。神様の為に生きているのか…。それなら俺は、お前がうらやましい。もしお前が、(自分の為に生きている)と答えたら、お前がやっている事は間違っている!! と説教しようと思ってたんや。でも、(神様の為に生きている!)と、ハッキリ答えれて、その通りに生きているお前は、すごいと思うぞ。それにしてもまだこんなに若いのに、なんでそう言いきれんねん。俺も今(この為なら死んでもいい!)と思えるものを探している。でもまだ、それが何かはわからへん。俺のまわりにもお前のようなヤツはおらん。お前は、この為になら死んでもいいと言えるものを、見つけたんやな…。それにしても、それが神様と言うのが、わしにはどうもわからんがな…」と言った。

あれから30年以上経った。人生の「なぜ?」「どうして?」「何の為に?」は、増える一方だ。しかしそれでも確信している。神様は決して間違った事はなさらない。すべてに意味がある。そしてすべての謎を解くカギは、神様にある。すべてが完全にわかる時がくるのです。

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 (第一コリント 13:12)

                                                    
2014. 9 /18 「たとえ歌えなくても」

小さい頃から歌が好きだった。近所の人が夕涼みしている中、よく(エアーマイク?)で、流行歌を歌っていた。
中学生の時、教会に導かれ、宣教師の娘さんとデュオをするようになった。そこから私のゴスペルシンガーの道が開かれて行った。

20才の時、ミクタムレコードから出た「いのちのパン」のレコーディングに参加させて頂いた。その時は、気づかなかったのだが、へたくそな発声で一週間、無理して大きな声で歌ったのが原因で「声帯ポリーブと脂肪腫」というのが出来てしまったようだ。

5年経ってやっと喉の異変に気づき、手術となった。手術は成功したが21日間「しゃべるな」と言われ、入院していた。何もする事がないのでずっと聖書を読み、祈る生活。そんな中、神様からこんな語りかけを聞いた。

「このまま声が出ず、歌えなくなっても、あなたはわたしを愛するか?」
「ギターが弾けなくなっても、従うか?」と。

私はその頃「神様の愛をギターを弾きながら歌って行きたい! 音楽を通して神様を伝えたい! 」と思っていた。

しかしこの神様の声を聞いた時、
「この声をくださった神様は、歌えなくする事もお出来になる方だ! ギターと出会わせてくださり弾けるように導いてくださった神様は、指を動かなくする事もお出来になる方なのだ! この声も指も、神様がくださったもの。もしこのまま歌えなくなっても、私は神様に従う事ができるのか?」

そして、私は気がつかされたのです。自分は神様のためと言いながら、実は大好きな歌を続けたいだけ。手術が成功して良かった。これでまた、音楽を続けていける! と思っている本音を。

しかし神様がほしいのは私の歌じゃなくて、どんな時にも従う心だったのです。「たとえ歌えなくても、あなたを賛美します!」というその告白を主は待っておられたのだと。

その後、音楽の道は閉ざされ、牧師と結婚して牧師夫人となった。4人の子どもも与えられ、奮闘する毎日。しかしなんと26年経ち、不思議な出会いと導きでCDが完成し、再びギターを抱えて歌う日々が来た。それからの3年間、自分の知らない行った事のない所でも神様を伝える機会が与えられ、こんな歳になってからこのような導きがあるとは、全く想像していなかった。

神様にすべてをささげた時、神様は、私の計画ではなく神様のご計画成し遂げてくださる方だと知りました。いのち果てるまで、ハレルヤと歌い続けよう♪

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みは(とこしえにあります。(詩篇 138:8)
                                                    
2014. 7 / 6 「クリスチャンの祖母」

私がクリスチャンになれた背後には、祖母の祈りがあります。
小さい時から、祖母は私を教会に連れて行ってくれました。

「典子、祈れなくなっても、聖書が読めなくなっても、教会だけは休んだらいかん。重い足を引きずるような時でも、教会だけは行きなさい。そうすれば必ず、いつか道は開けるから!」それが口癖でした。

そして私が中3の時、父が交通事故で死にました。その時も祖母は、自分の息子を跳ねた加害者に「あなたも大変な事になってしまったね。あなたを救うのは、イエス様しかおられない。イエス様を信じなさい」と言って、伝道したのです。その時の私は、祖母の思いが全くわかりませんでした。(自分の息子を殺した人になぜ? どうして赦せるの? 何、かんがえてるの! 信じられない!) と思っていました。しかし今は、祖母の中にイエス様を見るような気がします。

私が牧師と結婚する事になった時も、祖母が一番喜んでくれました。披露宴では、予定に無かったのに、是非賛美がしたいと言って、賛美歌を歌ってくれました。

それから数年でしたが、私たちが牧会している近江教会で一緒に礼拝をささげる事も出来ました。自慢の祖母は、負けず嫌いで、とってもお茶目で、信仰深く、何事にも一生懸命な人でした。礼拝後に突然、みんなの前で、暗記した聖書の2ページほどの言葉を、スラスラと言い出してしまう、何ともお騒がせな、尊敬すべき祖母でした^^

ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。(ルカ 6:35 )
                                                    

2014. 5 / 1 「何によって憶えられたいか」
         ( 1 / 6 「え・ら・ば・れ・た」の続き)

ドラッガーという人がその著書の中で書いています。

「私が13歳のとき、宗教の先生が、何によって憶えられたいかねと聞いた。誰も答えられなかった。すると、今答えられると思って聞いたわけではない。でも50になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよといった」
       (ドラッカー名著集『非営利組織の経営』)

50を過ぎている私は答えられなければならない。私は何と憶えられたいだろう? 神様は私を選ばれた。そうだ! 1月6日の所でも書いたように、(神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ 1:4〜5) ) とあるように、私は「神様の子」として、あらかじめ定められていたのだった。それなら私のこの人生の問いの答えは

「典子はまことに神の子であった」という生き方だ。イエス様が十字架で死なれた時、そばにいた百人隊長が言った「この方はまことに神の子であった」(マタイ37:54)と。

イエス様のように生きれたら、何と幸いでしょうか。あまりにも罪深い私だけど、この問いかけを常に前に置いていこう。

そしてもっと言うなら、人に何と評価されるかよりも、神様に何と評価される者になるのか、それこそが何よりも大切な、私の生きる理由になるべきだと思わされている。

                     
2014. 4/ 9
 「しあわせのルール」

16才の時、原付で二人乗りをして捕まった。
警官「免許証、見せなさい」私「はい…」(免許書を見せる)
警官「んっ? なんや、女の子やったんか」私「はぁ… (ほっといて、どーせ私は男みたいですよ)」
警官「二人乗りしたらあかんの、知ってるよな」「はい…」
警官「違反やからな、キップ切るで!」「はい…」
警官「ええなー、切るでぇ」「はい…(ってゆーてるやん、しつこいなぁ〜)」
警官「う〜ん、深く反省しているようやから、今回は赦したるわ」(えっ、マジで^^;)

なんて事もありましたが、普通、ルールを破ったら罰則があるのは当たり前。赦して頂きながら、こんな事言うのもなんなんですが、赦したらあかんよ、イタイ目に合わなければ、違反し続けるでしょ。違反し続ければ、どうなる? 死ぬよ! って事ですよ。
交通ルールは何のためにあるのか? 命を守るためです。

神様のルールも同じです。守らなければ死んでしまうよ! という事です。
では神様のルールって何でしょう。それは「愛」です。

聖書の中に一番大切な戒めはこれですと書いてあります。それは、

第1には『 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
第2には『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません。  (マルコ 12:30〜31)

「神を愛し・自分を愛し・隣人を愛する」これが「しあわせのルール」。「永遠のいのちへの道」なのです。
しかし、神様を愛さず、自分勝手に生きているなら、そして神様を無視し続けるなら、「死んでしまうよ! 永遠の滅びなんだよ!」と言っておられるのです。

あなたは、今まで神様を愛して生きて来たでしょうか? 自分を受け入れられるでしょうか。家族を、隣人をゆるせるでしょうか? 今日から神様と向き合ってみませんか? 自分と向き合い隣人と向き合って見ませんか。「愛する事やゆるす事」自分の力では出来ません。しかし神様にはできます! 悔い改めて信じるだけです。ちょっと静まって考えてみませんか。これが「永遠のしあわせのルール」だと聖書は言っています。
                    
2014. 1/ 6「え・ら・ば・れ・た」


2014年になりました、今年もどうぞよろしくお願い致します。
さて早速ですが、本日(日曜日)、4回も同じ聖書のことばが開かれました。朝の「JJ(中高生会)」で、第一礼拝と第二礼拝で二回分、夕食前にいつも読んでいる「デイリーブレッド(聖書の解説書)」の中でも、全く同じ言葉が・・・。それが以下です。 

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ 1:4〜5)

私たちは、世界が造られる前から選ばれていた、そして、それは聖くしてくださるため!
はじめから愛をもってあらかじめ定めておられたなんて! 何というめぐみ!

まさしく「え・ら・ば・れ・た! 神様〜! 感謝永遠にー」
                         
2013.12/19 「笑顔?」

「浜岡さんは、笑顔が素敵だね」「いつも笑っているよね」「どうしたらそんな風に笑顔でいれるの?」とよく言われます。でも私は思うのです。「笑顔は作れる」と・・・

私は小さい頃からいつも、周りの目を気にして生きてきました。人が私の事をどう思うかと恐れて生きていたのです。それはきっと、とても怖かった父に、小さい頃から毎日2時間ほど正座させられ、怒鳴られて育ったからなのでしょうか。私は、いつしかの代わりに笑顔を作るようになりました。心は泣いているのに、顔では笑ってごまかして来たのです。本当はとても怖い! 「違う! 」と叫びたい。でも、良い子を装い、逆らわないように、受け入れてもらうためにヘラヘラと笑うように・・・、そうして私は、いつも笑顔の子となったです。

ある時、友だちが悲しい話をしているのに、自分が笑顔で聞いている事に気づきました。それからは、辛い話は辛い顔で聞けるように、泣いている人とは一緒に泣けるようにと努力してみたりもしました。

でも、私はイエスさまと出会ってから全く変えられました! 努力やがんばりでの「笑顔」「作り顔」じゃなく、心からわき上がってくる「喜び」を頂いたのです! それは、今まではなかった平安のともなう「喜び」と「感謝」でした。その「喜び」とは、悲しみの中にあっても、どんな境遇にあっても与えられるというものでした。

聖書の中には「笑顔」という言葉は出てきません。神様が私たちに与えてくださるものは、「笑顔」ではなく「喜び」なのです! 聖書には、なんと多くの「喜び」という言葉が出てくる事でしょうか。神様を信じる者に与えられるのは、どんな苦しみの中でも与えられる「イエス様の喜び」なのです。それは一生懸命作らなければならないものではありません。喜び感謝楽しみがあふれてくる! それがクリスチャンの特権なのです。

私は人を恐れて生きる者から、
神様を恐れて生きる者へと変えられました。

それは、暗闇からに入れられる経験です。
嘆きと悲しみが、喜びと感謝に変えられる経験なのです。

主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。 
わたし(神様)、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。(イザヤ 51:11 〜12)

                      
2013.11/29 「自慢」


苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇 119:71)

私は色々な所で、お話させて頂いています。弱さ失敗もさらけ出して話します。それは、こんな私をもなお見捨てず愛してくださった神様の深い愛を、どうしてもお話ししたいからなのです。

ある時、母校でお話しさせて頂いた事がありました。終わってからある学生に「クリスチャンの人はなぜいつも、試練を自慢げに話すのですか」と言われ、私はそんなつもりは全くなかったけど自慢に聞こえたなら、これから言い方も気をつけなくちゃと思いました。でもよく考えたら「いや、そうか! もしかしたら自慢かも!」と思うようになりました。

というのは、試練があるという事は、神様が私を信頼しておられる証拠だと思ったからです。長男を出産した時の話です。丸二日も激しい陣痛があり、本当に死にそうでした。その時、

お医者様「ようがんばったね。もう一日、こんな状態が続くようなら、切ろうと(帝王切開)思ってたけどね」
私「えー、先生、そんな手があったんなら、さっさと切ってくださいよ〜。もうあかんーって、何回思ったか! 死にそうでしたよー」
先生「他の人やったらとっくの前に切ってたけどな。浜岡さんやから切らんかった。」
私「え〜、なんでー?」
先生「浜岡さんは体力ありそうやったからねぇ」
私「そんなぁ〜^^;」

でもこのやり取りで思いました。神様も「あなたなら、まだ大丈夫だよね」そう言って見守っておられるのだと。いつでも助ける用意をしながら、見つめておられるのだと。「あなただから」と、信頼してくださっているのだと。

ダビデは言いました「苦しみに会った事は、私にとってしあわせでした。」苦しみによって真理を知り、神様の深い愛を知り、どんな状況でも感謝と喜びにあふれる方法を見いだしたから! ハレルヤ!
                      
2013.11/22       「引き裂かれた翼」


もしその人の主へのささげ物が、鳥の全焼のいけにえであるなら、(途中・略)その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。 (レビ記 1:14)

何と、恐ろしい事が書いてあるなぁと思います。旧約聖書を読むと、いけにえとか、血を注ぐとか、火で焼いて煙にするとか。かなりおどろおどろしい事が書いてあります。気持ち悪いから、読むのをやめようか? いや。これは大切な真理。私の罪とは、これほど汚れきっていて、救いがたく、何を持ってしても赦されるものではないのです。目を背けちゃダメだ、神様を無視して生き続けているなら、私は死ななければならない。だから、ゆるされるために、身代わりとなり、命がけで救ってくれる方が必要だったのです。それが、いけにえ。それは「牛」だったり「羊」だったりしました。これらの家畜は、血を流し、焼かれました。そして、そのささげものが「鳥」の場合は、その翼を引き裂きなさいと書いてあるのです。切り離してはならない!  引き裂きなさい!?  なんとむごい!

しかし、深く教えられました。私のために、このむごい事を耐えてくださったのが、イエスさまだったと。私の身代わりに十字架にかかってくださった。十字架の上で、イエスさまは血を流され、手足は釘打たれてその肉が引き裂かれたのです!! そのおかげで、私の罪は完全に赦されたのだと。そして、この時からもういけにえは必要ではなくなりました。イエスさまの十字架の身代わりの死が、完全だったからです。

そして、イエスさまは死んでくださっただけではなく、三日目によみがえられました!! 今も一緒にいて、私とともに生きてくださる!! なんという恵みでしょうか!  ハレルヤ
                       
 2013. 8/16  「三本のトウモロコシ」
            (ホームで紹介しましたが、残したいのでこちらにも書きました)

トウモロコシを3本買って来た。外見はみんな同じだったのに、皮を剥げば、あら! びっくり! みんな全然違うじゃありませんか!!

どこまでもまっすぐなの
途中から曲がったもの
あれまー、みごとに外れまくっているもの・・・

でも同じ98円だった

あなたの中身は、どんなだろ?
味もきっと、みんな違うんだろうな・・・

あなたがどんな中身でも、神様にとっては、かけがえのない存在! 

「あなた(典子)はわたしの目には、高価で尊い
 わたしはあなた(典子)を愛している」(聖書 イザヤ43:4)

と、神様は言われました。

そして、98円どころではない、神様は、私を(あなたを)「キリストのいのち」と言う代価を払って買い取ってくださった。

ゴミ箱行きの、罪深く価値がないと思われた私のため、イエスさまのいのちを犠牲にして、罪の泥沼から拾い上げてくださったのだ・・・。

そして、「お前(典子)はわたしが造った、かけがえのない存在。他の人がどう思おうと、そんなの関係ないさ。みんながどう思うかなんて、たいしたことじゃ ないんだ、(典子)。大切なことは、このわたしがどう思っているかって事だ。そしてわたしは、お前(典子)のことを、とても大切だと思っている。忘れちゃ いけないよ。この手で造ったから、大切なんだってことを。それから、わたしは失敗なんてしていないってこともね」
(絵本「たいせつなきみ」より)

あなたも、(典子) の所に自分の名前を置いて読んでみてください。
God Bless You



皮を剥いだ順番も、1.真ん中、2.左、3.右の順だったので
ホントに、びっくりした
それでは、試食、結果発表!! 

不揃いちゃんが一番おいしかったよ! ホント、ひいき目なしに。粒も大きいし、味わいがあった。波瀾万丈な人生、もしくは自由奔放な人生(とも言えるかな)は、いい味、出すのかな。。

途中から曲がっているのは、なかなか皮が硬かったなぁ。途中の試練で、鍛えられ、強くなったのかな。


どこまでもまっすぐなこは、隙間なくどこまでも規則正しく、これってある意味、やっぱりすごいな。はみ出したことがないって、自分の力では、とても出来ないよね。

そんな訳で、どれもみんな、神様の作品なんだなーと思いながら食べたのでした!

______________________________________________________________________________

 2013. 7/13  「あなたが、疲れているなら」

(イエス キリストのことば)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28〜30)

ここ10日ほどの間に続けてお二人の方が、うちのすぐ近くの駅で飛び込み自殺されました。地域の人々や先生方、子どもたちと話す中でみんな、本当に疲れているなぁ! と思わされます。どうすれば良いのかわからないと、頭を抱えておられるのです。 

イエス様は言っておられます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と。「わたしが休ませてあげる」と。

私たちの人生の重荷を全部降ろし、無くしてしまおうというのではありません。イエス様が、重荷をいっしょに負ってくださる。そしてその中で、わたしから学びなさいと言われるのです。

私たちの試練や困難は、無くならないかもしれません。しかし、その中で必ずイエス様は、たましいに安らぎが来る、そんな助けを与えると言っておられるのです。この方と一緒に歩みだしませんか。あなたの重荷は、あなたを押しつぶすものではなくなり、たましいに真の平安を与えるものと変えられます。


_______________________________________________________________________________


 2013 6 / 9 「今でしょ!」

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント 6:2 )

「いつ、神様を信じるの?」「今でしょ♪」
今が、恵みの時、救いの日です。どのような状況でも、必ず救い出してくださるのは、神様以外にありません。「今」人生を考え直しませんか?

________________________________________________________________________________


2013年の目標みことば
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。1ペテロ 2:17 

「神様! 増々あなたを愛し、隣人を愛することができますように。すべての人を敬えますように。日本や世界の動きに鈍感な者でしたが、今年は特に上に立てられた人々を尊び、祈って行けますように。」


0 件のコメント:

コメントを投稿